30年くらい前、あと少しでクリスマス
というときに、母の病気がわかりました。

父が主治医となり、
患者さんは何もできない時間がつらいからと、すぐ入院、手術。クリスマスでした。

それから、よくなったり、進行したり。
母の誕生日に空に。

1ヶ月ほど、意識のなくなった母と、実家で過ごしました。

意思疎通はとれないけれど、2才の長女が顔を寄せると、顔を近づける。
病に対して何もできない。母も。私も。でも、柔らかな優しい時間でした。

このままでいいから、ずっといて欲しい
そう思っていました。

そこにいるだけでいい

そのときの空気、画、
いろんな感覚と共に、身体に残っています。
感覚を伴って思い出します。

何かの役に立つとか、生きる意味とか、がんばるとか、がんばってないとか、そんなことがひとつもなくても、全然いい。そんなことどうでもいい。いてくれればいい。

呼吸を学び、
身体について学び、

そこから、
身体性と自分の在り方、人との関わり方に学びが進んでいます。

“ コミュニケーションは根本は相手の存在への無条件の認識です。 “
  森田敦史先生のブログより

長く長くかかったけれど、
あのときの自分と母にあったことが何だったのか、
わかるような気がしています。
母の年齢を超えてしまいましたけど。

その人を、あるいは自分を、
存在 として、ただ認識する。

そうしようと頭で考えるのではなくて、
身体で感受する。

入り口まで、育ってきたのかな。

もっと知りたい、進みたい。

なら、やるしかないなぁ、結論はいつも同じ。
つべこべ言わずにやる、って鬼っぶりが出てしまう。

お伝えする口調は優しい、と言われています。

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